宗和税理士法人は、税務申告書の作成から、組織再編成、事業承継税務、税務に関するデューディリジェンスに至るまで、幅広いサービスを提供しています。
川北 博 著
定価:3,500円(税抜)
単行本: 407ページ
出版社: 日本公認会計士協会出版局
発売日: 2008/07
おすすめ度: 5つ星のうち
5.0
※ご注文はamazon.jpにて承ります。
昭和四四年から私は協会総務担当常務理事、政治連盟復活後はその幹事長として監査制度抜本改正を目指す商法改正作業を担当しました。
そのころ私の公認会計士事務所は大森から茅場町に移り大森事務所売却資金で二一坪三階建て(一階には車庫)の小さなビルを作りそれを本拠としていました。
昭和四一年公認会計士法改正後、昭和四三年に監査法人太田哲三事務所が創立され、「トーマツ」や「中央会計事務所」「朝日会計社」等々が後に続きました。
その後も親しく暖かい交遊関係が続いていた元「監三小」メンバーも何とか時流に乗りたかったのですが、みんな研究熱心で優秀な公認会計士であっても、それほど多くの監査クライアントを持ってはいませんでした。
私は、昭和四六年に協会の副会長兼政連幹事長になり多忙を極めたので、それまで手伝っていた井上達雄先生の三井造船等の監査の仕事をすべて辞退し、丸善等の私個人の受託業務を何とか消化していましたが、私も仲間同様に個人的営業センスが稀薄でした。それでも私の仲間たちは何とか志をともにできる監査法人を作ろうとし、年令的には大分上の勝田一夫(CPA名古屋・丸の内事務所)さんと組んで、遂に東京丸の内事務所をまとめました。それはやがてサンワ事務所と合併してサンワ東京丸の内事務所(STM)となり、その交流の輪が広がっていきました。
その後のSTM発展の過程で、私は妻の叔父で当時三機工業の常務(後に社長)をしていた玉置純治郎に貸し事務所探しを頼みました。叔父は新橋・虎ノ門近くの日生ビルの百坪を一坪九千円の家賃で見つけてくれたのですが、勝田さんは「そんな高い家賃を払うつもりは毛頭ない」と頑として反対されました。どうにもならない状態のところへ、私の小さな会計事務所の二一坪の土地を世話してくれた八重洲不動産の人が来て、「いま近くの桜通りに六一坪の土地が売りに出た。良い物件だと思うので、ぜひ今までお世話になった川北さんに買っていただきたい」というのでした。
なるほどその土地を購入し、そこへビルを作れば、勝田さんの希望にもそえる事務所ができる、と試算し、仲間にはかりました。みんなそれは良い、ということになりましたが、現実に資金が集まりません。最年少の仲間の稲門の秀才宿谷太一郎が「自分の実家は不動産業でビルももっている。こうしてみんなの協力を待っていては時機を失し、結局は成功しない。ビルを作るくらい川北さんならできるから、ぜひ個人的に話を進めて下さい」といい、協議の結果みんなで川北に頼む、ということになってしまいました。それから紆余曲折はありましたが、妻の叔父と陸士同期の富塚光雄(旧姓鈴木、当時竹中工務店取締役、日本ホームズ社長)らの献身的な協力を得て地上七階・半地下駐車場つきの「宗和ビル」が出来上りました。
私は協会の公務も超多忙でそれどころでありませんでしたが富塚の「借金のことは心配するな。金はいくらでもある、という顔をしておれ。必ず何とかなる」ということばを信じてすべて前向きに仕事を進めました。
宗和ビルは、昭和四七年十一月には見事に出来上り、そして監査法人も無事スタートラインにつきました。
五・六・七階を会計事務所とし、一~四階を貸しビルとしましたが、その後富塚のことばどおり家族の出資や借入金で作った宗和ビルの借入金も予想外に早く完済することができました。
ところで「宗和有限会社」「宗和ビル」命名の由来は、別稿のとおりです。
その後トーマツ(そのころは等松・青木監査法人)が、それまでの国際提携関係を結んでいたトウシュ・ロスから、他の重合的契約関係にあったメインラフレンツ(ML)やシードマン&シードマンなどとの提携契約を切るよう要望があったので、そのうちのMLをぜひ川北に引受けてほしいという要望が、トーマツの宇佐美元さんからありました。MLは米国のBig9(ビッグ・ナイン 八大会計事務所の次のランクのファームの総称)のなかでも屈指の名門だという解説もありました。事実MLには、マニエルF.コーエン(一九一二~一九七七)を委員長とする「監査人の責任についての委員会」の「結論及び勧告」に名を連ねる七人委員会の一人、レロイ・レイトン(Leroy Layton)元AICPA(アメリカ公認会計士協会)会長なども居て、その後私は大いに学ぶことができました。日本の会計や監査は、国際的視野において未だ夜明けの時代でした。